伊藤博文はなぜ初代内閣総理大臣になれたのか? [明治政府]
こんな疑問を投げかけられたひでお。考えたこともなかった・・・
その先輩曰く、「他にも英傑はたくさんいるのになんで伊藤博文なの?それが分からない」
先輩がどこまであの時代について知っているかについては今度じっくり飲みながら話し合う事にして、以下伊藤さんの新政府での位置づけを軽く検証してみる。
- 維新後、長州閥の有力者として多くの要職を歴任(参与・外国事務局判事・大蔵兼民部省少輔・初代兵庫県知事・初代工部卿etc...)していた。
- 伊藤博文が初代首相になる頃には、いわゆる幕末の英雄たちはほとんどこの世にいない。
- 征韓論での意見対立時、当時初代内務卿として新政府の実権を握っていた大久保利通に支持した為に多くの信任を得る。その大久保さんが暗殺された後内務卿を継承、事実上の宰相として新政府を切り回し明治18年、内閣制度を創設。
大久保内務卿の信任を得ていた、というところがもっとも大きいような気もしますが何が決め手になったのか、大久保さんの信任を得ていた人は他にもいるはず。しかも出身身分のとても低い伊藤さん。。。
そこは就職困難な現代と同様、‘学歴・キャリア’ではなく‘スキル’が決め手となっているようです。
伊藤さんが初代首相になった決め手は『英語力』でした。
当時太政大臣という最高官を務めていた三条実美、本来であればこの方が初代首相になるに相応しいお方なのですが。実は三条さん、なぁ~んにもできない・・・首相向きではない性格なのです、しょうがない。
初代内閣総理大臣を決める会議中、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤さんの盟友・井上馨が「これからの総理は赤電報 (外国電報) が読めなくてはだめだ」と口火を切って、これに続いて山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と言ったといいます。
結論、持つべきは信頼し合える上司と仲間ってわけですね。伊藤さんはもちろん実力も人並み以上だったのだろうけど人間関係にも相当恵まれていたんですね。あとはやっぱり‘運’も必要かな。
ついでに松下村塾出身の伊藤さんに対し、吉田松陰先生の人物評があります。
「利介(伊藤の当時の名前)亦(また)進ム、中々(なかなか)周旋家ニナリサフナ」
伊藤さんの学問がはかどっており、様々な人の意見を調整して考えをまとめる才能がたけていたことを意味しています。松陰先生が人物評で将来について触れているのは珍しいらしく、伊藤さんの才能がそれだけ光っていたということが伺えますね。やはり伊藤さんは初代首相に成るべくしてなったのでしょうかね~
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